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心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。


2016年3月25日金曜日

私の中の私…を見る


癒しと浄化については、いろいろな方から反響のあった記事なのですが、これに関連したことを、今日は記事にしたいと思います。

というのは、自分を見つめること、自分に湧き出る感情の根っこを探っていくことが浄化につながるわけなのですが、これがなかなかうまくできないという方も大勢いらっしゃるのです。

怒り、不安、悲しみ。

こういった感情は、実生活の中でもいろいろと私たちの幸福への道を邪魔する要因として、足をとるものです。

そのために上手く進めない。

不安だから行動できない、怒りのために相手も自分も許せない。

こういった状態は、あなたが幸福になることを妨害します。

その妨害要因は自分で心で作り出しています。



なので、私のことを少しお書きしようと思います。

人によっては役に立つこともあるかもしれません。

なぜかというと、私はこの自分のことを客観視することについては、非常に年季が入っているからです。
昔からできていた。

私の中には、もう一人の私がいます。

で、今回いつごろからそういったことができるようになり、どういう経緯でそうなったのか。

ちょっと思い出してみたのです。




説明しますと……

おそらく小学校に入るあたりまで、私はただの純真な少年だったと思います。

彼はたぶん私のメイン・キャラクターというのか、素直な私なんだと思います。

たとえば捨てられた子猫がいて、我が家でそれが飼えないときに悲しくて泣いたとか。

とくに深刻にものを考えず、無邪気に行動していた自分です。



ところが、記憶にある限り、小学校の高学年あたりから、自分の中に別な視点が生まれてきました。中学生の時には、それが顕著になっていたように思います。

これは多重人格とか、そういうものとは異なると思います。

おそらくなのですが、中学時代になって大量の小説を読むようになったことが関係しています。

この時期の読書量は半端ではなく、14~15才の男子の頭の中に、物語の中にある成熟した大人の思考回路や、推理小説も大量に読みましたので、いわゆる人間のネガティヴな部分も、いっぺんに情報として取り込んでしまったようです。

情報として、ですね。いかに感情移入したとしても、疑似体験にすぎないので。


私という人間はそこにありながら、私という人間の周辺で、自分とは別な価値観や考え方というのが、想像の中で湧くようになっていったのです。

たとえばお年玉をもらうとするじゃないですか。

それに1000円入っていたとしましょうか。
私個人は1000円がとてもありがたくて、「あ~、これでまた本が買える~」とか喜んでいるのですが、どこかで「ちぇ、なんだ1000円か~(と考える人間もいるだろうな)」と考えているのです。

「ちぇ」の発想は私本体が抱いたものではなく、そういう思考回路も世の中のどこかにあるが、それは自分のものではない、と理解しながら考えているのです。

一つの出来事に対して多様な考え方をする癖がついてしまっていたのです。

これは高校時代になると非常に顕著になり、たとえばこの時期には私は今に至っても切れない親友を得ているのですが、彼との付き合いでも、

「彼のことは信じられる」と普通に思う自分のほかに

「いったい、何を理由に彼のことを信じているの? 裏切られるかもしれないじゃない」と考えているのです。
ただ、「裏切られるかもしれない」という考えと私のあいだには距離があり、実はその発想が湧くのをそばで私が見ているのです。興味深く。

人間の心理というのはまことに興味深いもので、あることを思考すれば、その真反対のことを反作用のように思考する性質があります。

光を思えば、逆に闇を思うような。

良いことを考えたら、逆に悪いことを考え、慈悲的なことを考えれば利己的な考えも抱く。

人の中にはそういう光と闇が常に共存しているのだということを、高校時代にはすでに常に見て来ていたのです。

いつの間にか、なのですが。

私はこの両方の思考のどちらでもない、中庸に自分を置くようになっていました。



この次のことを書くと、もしかすると非難されるのかもしれないですが。

このブログで、たとえば災害の悲惨な状況に対する記事とか、危険なチャートから読み取れる記事を書くときでも、私は「早く救助されたら良い」と思う一方で、あるときは「この災害に関しては私の住むところには何も起きない」と思考していたりします。

が、それは単にそういう考えも人には湧くというのを、自分の中に客観視しているだけです。
本気で自分のところに何もなければそれでよいと思っているわけでもないんです。

世間一般の思考として、そのような利己的な考えもあるだろうということを理解しながら、遠巻きにその思考を見ているのです。

言ってみれば、思考の実験場みたいなものを自分の中に設置していて、私はそれらの思考を勝手にさせています。他に実害を及ぼすようなことはない。ただ自分の中でそういうのが湧いては消えるだけなので。


ところで。
感情を味わうこともこの世に生まれる大きな目的です。

とりわけこの世に生まれるにあたって傷つきやすい、感じやすいセンスを持って生まれている方から見れば、私はおそらくかなり冷酷な人間だと思われます。

いずれの感情や思考にも距離があるので、ある意味で非・人間的なところもあるのです。

人が善良かどうかという観点で、二種類に分けるとすれば、私は善良な人間ではないかもしれません。

よき思考や感情との間にも、距離感があるからです。

かといって「じゃ悪なのか」というと、それにもさらに距離があります。

ただ、いわゆる褒められないような思考もしているのは事実ですが、その思考と私のあいだにはさらに距離があったりします。

本気で考えてはいないのです(ネガティヴな思考に関しては)。

逆に自分も受け入れやすい、いわゆる善なる思考というのは、まったく抵抗感がないので、見てはいますが、受け入れています。



私が現実の生活の中でどうしているのかというと、そういうポジもネガも含め、感情や思考の湧き出るのを勝手にさせておきながら、

「じゃ、自分はどうするのか。どうありたいのか」

ということを、判断しているのです。


その判断の結果が、ここブログに書いているような立場です。

私はできうるならば自分が光の側にいたいし、好んで人からあしざまに言われるような立場になりたくもない。

少なくとも家族を愛し、大切に思っているのは事実で、こんな客観視の習慣がついている自分であっても、奥さんや子供たちに対する愛情は、リアルに自分のものとして感じるわけで、そこを守っていこうというのが、一番根本のスタンスで、それがあるからすべての判断がある。
リブラも愛おしいし(笑)


じつは、このように自分の中の自分を見ることができる人というのは、結構多く存在しています。

ただこのように込み入った説明をするのは極めて面倒な話ですし、人によってはただの冷血漢として誤解されます。
できるだけ普通に日常をやっている(演じている)というのが真相だと思います。


こういう内観習慣がすでにある私にとっては、理不尽な出来事に対する怒りの根っこがどこにあるのかというのをサーチすることは、実はとても簡単なことなのです。

怒りの中に、そもそも自分が入っていないからです。
瞬間的に何かを思い出して怒ることはあっても、この内観習慣もすごく年季が入っているので、すぐに離れることができる。



このような内観習慣が、中学高校時代の読書だけから身についたのかといえば、それだけではないと思います。

いくつかの布石はあったと思われます。

無邪気にやっていた少年だったのが、小学校時代にはいじめの標的にされ、やはり傷つくし自分を守ろうとします。
なぜそうなってしまったのか、自分や他人のことを知ろうとします。

前回書いた兄の存在も大きく、多少のことですぐに不機嫌になる気分屋の兄に抑圧され、なぜ彼を怒らせてしまうのか、考え、怯え、委縮してしまいます。

同じ小学時代、一つショッキングな出来事がありました。
修学旅行の時期に被っていたので、6年生の時だったと思いますが、走り高跳びをやって、私は左ひじを骨折してしまいました。
跳んだ後、下に落ちるときに左腕をまっすぐ伸ばしたまま地面に垂直についてしまって、ひじにひびが入ってしまった。
もちろんその時から腕は、曲げも伸ばしもできず、どうかしようとしてもものすごい激痛が走るだけ。

ところが当時の女性教諭が、私が痛がっているのを、「ただ跳びたくないだけだろう」と判断し、もう一度、「跳びなさい!」と強要しました。

少年の私は泣く泣くやりましたが、もちろん走るときに腕も振れないわけで、バーを跳び越せるわけもなく、体育の授業が終わった後、砂の入った靴を脱ぎ靴下をちゃんとはこうとしていたのかな、そういった単純な作業すら手が使えず、痛みのあまり勝手に涙が出てくるような状態なのを見て、ようやく「これはおかしい」と思った教諭が医者へ連れて行き、骨折が判明。

私は修学旅行をギブスをつけて行くことになったのですが、その時、「自分がどういう状態になっても、正直に訴えたとしても、厳しい人は厳しいし、信じない人は信じない」というようなことを皮膚感覚で感じたように思います。
ま、少年時代の一コマにすぎないのですが、こうやって整理していくと、自分の強く反応するところというのが、じつは子供のころに受けた体験の中にあることがわかってきます。

人は他人をいじめるのが楽しい。
人は他人のことを思い通りに支配したい。
いくら言っても信じてはもらえないこと、助けてもらえないことがある。

つまりこういう感情や思考の出所もここにありそうです。

幸いというのか、3歳離れていた兄が中学に上がると、少なくとも学校では接点がなくなりました。
生活も変わってくるので、家でも接点が減る。

そして中学になると私は、いきなり読書に没頭します。
こうして読書をすることで、数々の疑似体験的なものを集め、人々の多様な思考回路について学んだことは、もちろん大変に役立ちました。知識の上だけだとしても、小説と物語はやはりリアルな人間が作り出すものだからです。

これは皆さんにもお勧めできます。

漫画とかよりも、やはり文字情報が頭の中でイメージ化する小説のほうが良さそうです。

読者をする人としない人では、この「客観視」のアプローチに差が出てくるように思います。

ですから浄化と癒しの年である今年、内観を実践し、より幸せに近づ生きたい人には小説を読むということもお勧めします。
自分の好きなものでよいと思います。できるだけたくさん、多様なものを読まれると良いでしょうし、感情移入できるようなものが良いでしょう。


もう一つは今日、ここで私がしたように順を追って書き出していくこと。

それによって自分を知ることができます。



一番大事なのは、「意志」ではないかとも思います。

私は寄ってたかっていじめられることで、人は他人をいじめるのが楽しいことを知りました。
兄を通じて、人は他人を思い通りに支配したいのだと知りました。
頼りにすべき人に信じてもらえず、裏切られることがあるのも知りました。

こういった体験を感情のまま抱えて、同じように中学時代を過ごしたら、どこかでおかしなことになっていたかもしれません。
でも、これらの体験から、自分の中で決まっていったこともあります。

その人が何をしたとしても、寄ってたかって攻撃するような立場は自分はとらない。
  →一人一人の人生、考え方、学びを尊重し、否定しない。
人を自分の思い通りにはできないし、しない。
  →謙虚になり、あるがままを認める。
信じてもらえないことがあるも仕方ないし、裏切られることもあるのが人生。
  →自分の責任において相手を信じる。

こういったことは、成長するに従い、いつの間にか自分のマナーとなっていて、今の判断の基準にもなっています。
ま、人間ですから、時々感情的にもなりますし、全部が出来ているのかと問われたら、口ごもってしまう部分も、ちょっとありますけど(笑)

こういう意志はたぶん小学校の時の体験の裏返しなのだと思われます。
ネガティヴな思考や感情が湧いても、それに同調しないということができたのも、結局はその意志なのかもしれません。

としたら、あの時の数々の経験も、重要な意味を持っていたことになります。


皆さんのお役に立ったかどうか、怪しいですが。

非常に個人的なことを、つらつらと書かせていただきました。


自分のことを知り、内観するということのサンプルとして。



※ 注
私は感情から距離を置くことをしやすい人間ですが、それはチャート上にもそれをやりやすい特徴があるからで、感情を捨てることが正しいわけではありません。
感情を味わうことはとても大切なことで、特に情緒的なセンスの強い人は、むしろこれを豊かにすること、磨くことが大切です。
いかに癒しのためとはいえ、感情を捨てることをお勧めする記事ではありません。
ただ情緒豊かな人ほど、感情に呑まれやすいというのは傾向としてありますので、痛みや悲しみ怒りなどが自分の何かを阻害している場合、やはりこれを一度とことん見つめてみれば、内観後の内的な充足は非常に大きなものとなり、より幸福へと近づくはずなのです。